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はがき伝道

はがき伝道
  • はがき伝道 2024年7月18日

    はがき伝道 令和6年5月431号 真福寺

     

    地獄を生きる

     

    みんなそれぞれ十人十色の人生を生きている。

    他人から見れば幸せと思える人も

    実は人には言えない苦しみや地獄の中を

    もがき苦しみ生きていることもある。

    誰しも十人十色苦あり楽ありを生きているのだと思う。

    南無地獄大菩薩である。

    そこで生きているのが私達である。

    地獄極楽は紙一重とはよく言うものだる。

    幸不幸の違いを坂村真民先生は次のように言ってる。

    「幸せはどこからくるか。

    それは自分の心からくる。

    だからたとえ不幸に落ちても、

    心さえ転換すれば、

    灯台の灯のように。

    自分ばかりでなく、

    周囲を明るくしてくれる。

    そのことを知ろう」と言う。

     

    八木重吉氏は、「花はなぜ美しいか。

    一筋の気持ちで咲いているからだ。

    本当に美しい姿、それは一筋に流れたものだ。

    川のようなものだ。人生はいつ楽しいか。

    気持ちが一つになり切った時だ」と言っている。

     

    円覚寺派管長横田南嶺老師は

    「この道を行こうと思うなら、

    まず信じる事。

    信じるから努力できるのです」と語った。

    信じ切ることを一徹になりきったところに

    地獄が極楽に変ずるのだと思う。

     

    易経に「窮則変、変則通、通則久」

    という言葉がある。

    とことん追い込まれたら

    とことん自分を信じ切ることである。

    信じ切った時、

    気付きの変化が生まれる。

    窮し切った時にエネルギーの磁場変換が起こる。

    新しい世界の扉が開かれる。

    変ずることで不幸が幸福の道に通ずるのだ。

    信じ切ることで

    信じて努力する所に

    新しい世界が生まれ、

    通じた新しい道は

    久しく川の流れの如く通じていくということである。

     

    信ずるということは信じ切ることが大事である。

    人の真似をする人生は面白くもないではないか。

    人生は唯一度の舞台である。

    私だけの人生を生きようよ!

     

     

  • はがき伝道 2024年7月18日

    はがき伝道 令和6年4月430号 真福寺

     

    日本文化は四季と共存して出来上がってきた。

    人は自然を見なくなり、都会に自然が無くなったのである。

    米作り一つをとっても、

    田植えから夏の草取り

    秋の収穫まで、行程を昔の子供たちは

    通学の途中で毎日変化してゆく姿をみて育った。

    米がとれるために、

    どれほどの行程があり、

    どれほどの汗を流して

    作物が採れるかを

    体全体で体感していたのです。

    そして、時には嵐や災害台風により

    これほど大事に育てたコメが

    一夜にして全滅する姿を子供たちは

    見ることもあったと思う。

     

    今、子供たちが頭の中で考える世界だけで

    短期間で結果を手に入れる習慣が

    恒常化しているのではないかと考える。

    どんな世界でもコツコツ実地を踏んで

    大きな成果が手に入るのではなかろうか?

     

    都会から自然の深き息吹を学べない。

    そんな環境が一般化して作物が口に入るために

    どれほどの生産者の苦労があるか

    見えない時代になっている。

     

    春夏秋冬の変化の中で生活することにより

    我慢と努力を学ぶことが昔はあったのです。

    我慢して技術を体得する生活が欠如した。

    キレやすい若者は四季の風景の中から学ことが

    欠落しているのである。

     

    経典に「信心決定いたすべし、

    人々賢き智慧あれば、

    春は万の種を蒔き、

    秋は稔りを待つのみか

    今を知れぬ後の世の

    永き冥路を打ち忘れ云々」とある。

    しかし、今の若者にこの経典を

    読んでも響かないと思った。

    農村風景は欠如し工業情報産業で

    日本は成り立っている現在。

     

    春は万の種を蒔く風景はどこにもなく、

    秋の実りを待つ風景はどこにもないのである。

    特に都会においてはである。

    本来日本は農耕文化で成り立っていた国である。

    一年周期で作物を作り

    生産し生活経済を成り立たせていた国である。

    昭和20年以降そのシステムが崩壊していく。

    結果令和年間の今に至り、

    ヨーロッパ的生産形態に移行しているのである。

    農耕民的生産形態が変化した時代といえる。

  • はがき伝道 2024年7月18日

    はがき伝道 令和6年3月429号 真福寺

     

    「汝の行動は汝の預言者」聖書

     

    私が今とている行動はそのまま未来を予見している。

    亡くなった父は「蒔かぬ種は生えぬ」と口癖のように言っていた。

     

    小学校以前ですが、

    朝起きると草取り、

    冬から麦踏み、

    百姓の仕事をさせられました。

    勉強など教えない。

    本読む更々無しでした。

    しかし、父は日々筆を執り、

    本を読んでいました。

    毎日働き詰めでした。

    ただ、父の発案した事業はだいたい失敗していました。

     

    養鶏、養魚、植栽(桃李、他)寺院経営を成り立たせるための事業です。

    最期はサラリーマン(明治乳業、進駐軍、関東配電、農協、他)をしていました。

    寺で「ベークライト」をしてました。

    金銭には苦労していたのが本当だと思います。

    しかし、彫刻、芸術、書道物書きは

    日々怠らず磨いていました。

     

    結果寺にはものの見事な石庭、

    ご拝の彫刻など知らず知らず

    芸術的寺院が現れていきました。

     

    父の亡き後思うことは、

    知らないところに、

    縁の絆の種を蒔いていたことです。

    まず父母のおかげで私たち三人の子供が

    産み育てられ生かされていることです。

    報恩の心を持つまでに心の中で

    気づく時期には父母はいません。

    しかし、父母が植え付けた

    心の種が今芽吹いていることは間違いない。

    今思うこのごろである。

    心の相続は大いに難しいものである。

    父母ご先祖様の思いを気づかず死んでいく人の多いことか。

     

     

  • はがき伝道 2024年7月18日

    はがき伝道 令和6年2月428号 真福寺

     

    気付く

     

     平成2年より令和5年まで書き続けた

    「はがき伝道」である。

    今やっと気づいたことがある。

    それは自分のこしかたを気づくための

    30年間の書き続けであった。

     

     学びは他人のためでなく、

    自分が気づくべき道程である。

    すべて我がための学びの場であったのである。

    感謝を学び、知らないことを知る学びであり、

    知識であり、智慧であり、

    森羅万象のことごとく自分の足りなさを

    知るために学び、気づくための作法が

    書き続けてきた「はがき伝道」であったのです。

     

     人生の最終章に近づいて気づく。

    この年になって気づくことができて良かった。

    柏ちゃんが30年前

    「光さん書き始めたら

    10年は続けなよ!」と言って励ましてくれたことが、

    30年後の今にまで書き続けることになった。

    感謝である。

    その書き続けてたどり着いた気づくことが、

    自分の人生のこしかたを

    綴っていたことである。

    何とおそろしいことか。

    人を送り、

    人に元気を招来してもらいたいために

    書いてきたことが

    ブーメランの如く、

    自分のために書いていたとは

    まさに「気づく」ことのビックラポン

    というところである。

     

     「汝の行動は汝の預言者」(聖書)といある。

    私が今とっている行動は

    そのまま未来を予見している。

     

     坂村真民先生は「二度とない人生だから」

    という詩を残している。

    人生という舞台にやり直しはない。

    同じ舞台の幕は二度と開けられない。

     

     

  • はがき伝道 2024年4月29日

    はがき伝道 令和6年 1月 427号

     

     生死事大を生きる

     

     与えられた生命を生きることだ。

    御先祖様が命がけで伝えてくれた大事なこの生命である。

     

     この頃終活という言葉が流行っている。

    生命の大河、広大無辺の生命の紡ぎ合いで

    絆が繋がってきたことを考える時、

    終活という言葉はいらない。

    即今只今、当所、当所、

    今ここで与えられた生命を最後まで輝き切って

    生きることだと私は思っている。

     

     生かされている自分が今以上に

    輝くように自己を磨くことが楽しいではないか。

    終活なんて考えるだけ馬鹿馬鹿しいと思う。

    一息一息を感動する人生でありたい。

    毎日毎日朝の日差しを浴びて、

    夜寝るまでやるべきことが山ほどある。

    無駄も楽しむ。

     

     終活を考える時間があるなら、

    一呼吸の坐禅をしたらいい。

    その人に与えられた使命がある。

    その使命を気付くために

    自分探しをするだけで、

    終活は必要ないと思う。

    今の私にしかない人生を生きるのである。

     

     私は73年、今日まで失敗だらけの道を歩いてきた。

    しかし、どの時代を切り取っても

    思い出す度に思うことは

    吹き出すほど楽しいことばかりである。

    その時その時真剣に悩みもがき苦しんでいたはずなのに。

    年をとってその時代を振り返ると、

    なんであんなことで悩み苦しんでいたのかと思うのである。

    人生は長く生き続けたものが福を頂けることに気付いたのです。

     

     無駄を生き続けることである。

    今、私は本を読み、新聞は5社を読み、

    筆を執り、作務をする。

    毎朝一炷坐禅し、写経(臨済録序)し、

    一盌を頂くのが日課である。

    時間があれば囲碁をする。

    そんな毎日である。

    哲学書、歴史研究、

    雑誌『致知』は毎日欠かさず読むようにしている。