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はがき伝道 2023年4月15日
はがき伝道 416号 能源
はがき伝道 令和5年 4月 416号 真福寺
能源 冲天気
「エネルギー」を中国語に変換すると
「能源」と訳するのだそうです。
江戸時代の学者三浦梅園は
「枯れた枝に花咲くを驚くより
生木に花咲くを驚け」と言い、
生木に花咲くことを感動せよ!と言ったという。
今生きていること、
生かされていることに感動しなさい。
と私には聞こえた。
生命が生かされている今を大事にすることは、
過去に生きる事でもなく
未来でもないのである。
能源とは頂いている
無限のエネルギーを生かしきるために
天から授かった無限の源泉を
全身にあびて生き切ることである。
それが生かされていることに
対する感謝であり、
感動である。
生かされた今ここにいることに
驚くことを三浦梅園は語っている。
「今ここに生きることの幸せと
縁に生かされていることの幸せを語る時、
批判精神で物事を見るだけで
分析しないことである」と私は思っている。
自分という主観を大切にしながら、
天の道理を楽しむ人生であるようにしたいものである。
中国の言葉に「楽天知命」という言葉がある。
まさにそのことを語っている気がする。
古代より、
自然の中に神々の息吹を感じ、
あるがままの自然の山水を受用する生活の中に
「楽天知命」の精神が生まれるのだと思う。
能源は冲天気の如く
永遠に全宇宙に降り注ぐ
生命エネルギーであり、
我々はそのエネルギーを享受して
生かされている
すばらしい存在であることに驚くとき
心の奥底から感動が湧き上がってくる。
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はがき伝道 2023年4月15日
はがき伝道 415号 一輪一輪
はがき伝道 令和5年 3月 415号 真福寺
一人一人がお浄土を飾っていく
一輪一輪の花になる
梯寳圓
多くの植物は寒い冬の間、
活動していない。
しかし、寒さに耐えながら
根や茎は養分を蓄え、
種は次の芽を出す場所を求めて、
潜龍のように力を蓄えて
晴の日差しを待っているのです。
自分の咲く時期を待って
冬の時中を大事にすごしているのです。
その準備するべき時に
力を蓄える準備を怠った種は春至りても
きれいな花を咲かせることができず
一升を終わることもあるのです。
冬の時期の水やりが
次咲く花に大きく影響することは
多々あります。
人間も芽の出ない
冬の時期があります。
ゆっくり考え学び、
もがき焦る心を静めて
力を蓄える時があります。
まさに人間にとっては
冬の種の時期と考えることができます。
いろいろなことを心で練り直すチャンスと思えば、
静かに心を磨くことに
専念すれば良いのです。
「一人一人」「一輪一輪」にそれぞれにあった
人生の花の咲く場所と時間が必ずあります。
私に合った場所
その私にとって
たった一つの咲く場所です。
大事に納得できる
咲く花になるように、
一生一回しかない人生を
我が人生に悔い無しと
言える人生の花を咲かせて
終わりたいものです。
一人一人、一輪一輪にしか
巡り合えない
お悟りのお浄土を
招来する美しい花を咲かせましょう。
笑顔で送れる人生の花を咲かせましょう。
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はがき伝道 2023年4月15日
はがき伝道 414号 信仰
はがき伝道 令和5年 2月 414号 真福寺
令和5年初春である。
昨年令和4年7月8日安倍晋三元首相が
新興宗教への怨恨による狂行で暗殺された。
平成10年当時の原稿を思い出した。
信仰をこころの杖として
【はがき伝道 平成10年12月115号】
殉教だけが新興の形ではない。
幸福と調和と均衡をたもつ。
幸福は自己中心の我儘の生活からは
生まれないのです。
人それぞれの生活習慣の違い、
家庭・社会・国家の
歴史的経験の違いが、
物の考え方を
千差万別に生みます。
そして、行動規範も
千差万別の方向を生みます。
そのとき、各人の幸福指向も
千差万別となります。
いいかえれば、幸福の質も量も
自己中心の我が儘なものに
置き換えられる可能性もあるのです。
心の平安・幸福感を得るために
他人の不幸を代償として
獲得する場合も
許容されかねないのです。
「こころ」のありようを
丁寧に観察すべきです。
内観するためにも、
信仰をこころの杖として、
生きてゆくことが大切。
自己中心的、絶対的、
対立的、排他的な発想につながる
信仰を杖にしたときの信仰は、
杖にすがればすがるほど
自己破壊してゆくことになるのです。
たとえるなら、
毒蛇を杖と勘違いして、
命を奪われるようなものです。
自分を大切にする、
安心という平安を得たい
人生の幸福を得たいために
つかんだ信仰という杖を
間違えると悲惨な結果をうむのです。
修業により、
人生の「味っけが違い、
味わい深さが違う」のです。
修業の尊さは、
徹して、信じきってゆくことを学ぶ。
徹して、信じきってゆく
頑固さを学ぶことにあります。
一徹になりきることで、
自分だけの人生の味付けができる。
一徹になりきることで、
人生を味わう深さが
底なしの井戸水の如く、
無尽蔵の法悦を汲むこととなるのです。
一人一人みな自分に徹しきることです。
自分に生きるのです。
他人の生き方は他人の味付けの人生であって、
自分の人生ではないのです。
「年ごとに咲くや
吉野のさくら花
樹を割りてみよ
花のありかを」
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はがき伝道 2023年1月6日
はがき伝道 413号 伝法
はがき伝道 令和5年 1月 413号 真福寺
伝法
「我々人間の頭脳の中は、
数限りない印画紙の倉庫となっていて、
自分が強く感ずれば、
印画紙は強く感光するし、
弱く感ずれば、
浮き出てくる映像も
ぼんやりとする。
自分の名前すら書けない
文盲の老婆でも
真剣にお経の文を教われば、
忘れることもない。
脳中の印画紙は無数であり、
しかも一度焼き付けられた映像は、
死ぬその時まで消えることがない」
草間道三輔書より 平成28年当時のメモより抜粋
御先祖様が一生懸命生きて
頑張ってくれたお蔭で、
今の私があることを思うとき、
今の苦しいことや
困難があっても、めげない気持ちになる。
それが本当の生きる力となる。
そこに「ありがとう」の気持ちが生まれるのだ。
千年の時を超えた伝法が
印画紙のように刷り込まれている。
それが私に伝法されている。
38億年の命の伝法、
4500年前の縄文時代のDNAの伝法が
印画紙のように私に刷り込まれている。
そのDNAの伝法が今の私に響いてくるのである。
埼玉県の会社員はこんな川柳を書いている。
「俺を見て、御先祖様と孫が言う」
まさに伝法である。
御先祖様より頂いた伝法に対する
感謝の心が供養という作法である。
今、生きている私達には、
幸福や楽しい人生と
健康で長寿でいることが
尽きないように願い、
亡くなった人々や御先祖様は
苦から離れて
安心と安眠を願う
供養の救いの中に生まれますように願う。
先祖祀りの供養を積むことは
父母の苦労、
德に報い、応える伝法行事である。
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はがき伝道 2023年1月6日
はがき伝道 412号 無言の教え
はがき伝道 令和4年 12月 412号 真福寺
無言の教え
ある新聞の投稿欄に
次のような記事がでた。
「高校二年の次女、夏休みの社会科宿題が
〈郷土のことを調べなさい〉でした。
で娘が選んだテーマが〈わが家のルーツ〉。
83才になる祖父が
〈うちは彰義隊生き残りの家系〉と話してくれたのがヒント。
日比谷の図書館へ行って調べてみると、
ありました。ありました。
寛政の「武家家系図」に先祖のことが
出ていて、いままで不明だった
先祖の墓までわかったのです。
始祖は鎌倉の武将。
代々つづいて江戸時代は
徳川の旗本だった。
幕末、曽祖父が彰義隊に参加、
敗れたのでした。
祖父は生き残った父の事が気になるのか、
このことを話したがらなかったのです。
私達、これまで仏様を
あまり大事にしていなかったのですが、
先祖がわかったら、
弔ってあげなくては、
という気になりますからおかしなものね」
(厚木市主婦)
というものでした。
祖先とのつながりを知り、感ずる時、
先祖供養をせずにはいられないというのが
人情というものである。
オギャーと生まれて
いつしか70歳を超える年になった。
父母がこの世を去り、妻が去り、
人生というものに
喜怒哀楽があることを実感する。
人と人との縁と絆の大切さを
しみじみと細胞の奥深きところまで
響き渡るのを体感するこの頃である。
頭で理解することと
体全体で体感する叡知はどこか違う。
先祖供養は、生命全体で感ずる
無言の教えに対する
報恩の作法であると、
私は確信してお伝えします。
一陽来復を迎えるたえに
「無言の教え」を受信できる心に
チャンネルを合わせたらいかがですか?